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武田勝頼の統治の源泉が強い武田本軍だということがよく分かる。本軍への信頼が消えた時の瓦解の速さが凄まじい。
特段武田勝頼ファンでもないのですが、終焉の地である景徳院には何度も訪れています。今ですら何もない静かな寒村の地域。名家の終焉の地としては寂しくもあります。武田家は長篠の戦いに敗れてから一気に衰退したようなイメージがありますが、決してそんなことないんですね。領地は信玄の時代をも超えていますし、徳川や北条も勝頼本体との決戦はことごとく避けまくってます。勝頼は決して無能な暗愚の将ではかったのでしょう。当初は外交面でも手腕を発揮して成果を出していますね。勝頼から見てマイナス面としては、信長という調略も含めた戦の天才がいたこと、甲斐という内陸国であるが故に四方八方に気を配る必要があったこと、信玄の実子であるにもかかわらず、信、の字が与えられていなかったこと(有形無形の求心力)などが複雑に絡んでいたのかもしれない。最後の最後に小山田氏に見限られ、四十余名の手勢でを引き連れて落ち延び、景徳院で切腹するまでの心境に想いを馳せると誠に忍びない。
見ていて辛くなるほど敵に囲まれ味方は次々逃亡勝頼の心中を慮ると辛いものがある
朝倉義景然り決戦に敗戦後や逃亡中にもう一大決戦できる例ってどれだけあるんでしょうね。朝廷の仲介なくそれが成った事はないんでしょうが……。
もう少し持てば本能的の変で良くなったかもね!
久保田健 持ち堪えてたら信長は京都に戻らないだろうし本能寺の変は起こらないのでは?
Operation V それ、信長は戻らない。毛利はもう降伏寸前だし
勝頼享年37だったのか、今の自分と同年齢だと気付いた。合掌。
勝頼って、信玄以上にドラマ性ありますね。信玄はひたすら拡大期でしたが、勝頼はいい時代も滅びの時代もあって、武田2代か信虎入れて武田3代で大河ドラマ作って欲しい
武田信虎=平幹二朗(天国から出演)武田信玄=中井貴一 武田勝頼=堤真一
分かります!!!すっげー分かりみが深い。
武田信玄は大河ドラマでやりましたよ。
TheSiny777 堤真一は嫡男、武田義信ですね。勝頼は真木蔵人。
それなら今だかつてない武田家の家臣たちにスポットを当てた「武田二十四将」がいい。信虎時代から武田滅亡までを。
非常に詳細な解説動画をありがとうございました。勝頼も長篠と高天神城の救援以外は的確な判断をしていたんだなと思います。それにしても、これだけ戦をしていると、駆り出される方も大変だったでしょう。そういう面も最期の瓦解が早かったことにつながったと思います。
本当ですね。戦い続けないと領内がまとまらなくなるといった自転車操業みたいな感じだったのかと思いました。
出兵と略奪位しか産業が無かった武田の限界と言ったところですかね。兵は殺した位では死なない位強かったが。
版図を広げ過ぎた事、国内が疲弊しているのに戦に明け暮れた事、上杉の後継者争いに介入して北条を敵に回してしまった事。全てが悪い方に進んでしまった。これらの事を踏まえた上でも勝頼が優秀なのかね?
そもそも本拠地がど田舎の甲州だった時点で武田は織田と戦えるとは思えないが。
@@杉田竜馬 そしてその織田を敵に回したのは信玄なんだよなぁ
良い動画だった、長篠の戦い後の勝頼の行動が分かる作品ってなかなかないから大変勉強になった
事実を細かく教えてくれる面白い動画でした。勝頼も善戦してたのですね。人心掌握ができていなかったのが最大の要因な気がしました。
浅間山の噴火、武田勝頼にとってタイミングが悪すぎる。
それな。
非常にわかりやすい動画で、自分の間違つた知識の修正ができた。有難う。武田勝頼は決して歴史家が言う愚鈍な武将ではなかったと言って良い。
歴史学者はそんな事言ってなかったと思う!小説とかでいろいろ遜色されてるのが大きいです。関ヶ原での上杉景勝と石田三成が連携してたとか、豊臣家が滅んだのは淀のせいだとかもそう!全部歴史的事実ではないらしいです!
歴史は何が真実か分からないから楽しい😊徳川にとって強いと思われたほうが得する武将の評価は高く、暗愚と思われたほうが得する武将の評価は低くなる傾向があるとよく言われますね。前者の代表は武田信玄や真田信繁。後者の代表は石田三成や武田勝頼。信玄って凄いからうちですら負けたんだよ。だから馬鹿な息子が後を継いだら勝てたでしょ?みたいな。
愚将ではないが、ここぞの時に判断を誤って普代に見限られたのが、残念
最後は完全に「信長の野望」状態だったのね
早い投稿ありがとうございます。最大版図からの怒濤の崩壊。包囲と逆包囲の均衡が崩れ、信長の天下取りも王手がかかる。顕如の戦線離脱から高天神城の失陥。ショックの連続というところか。それにしてもその後の八面六臂、獅子奮迅の勝頼の戦いは有能以上のものがあると感じさせられました。配下の武将も最初から見限っていたのではなく、よく付いていった方だと思います。これほど方々から攻められると次第に離れざるを得なかったのだろうと思わざるを得ませんね。実質群雄割拠の終焉を決定づけた戦い。明智光秀が何かを思い始めたのも何となく分かる気がします。
ちなみに勝頼は小山田信茂の元に向かう前に、従兄弟の武田信豊(武田信繁の息子)を信濃の小諸城に派遣してるこれは信豊が信濃の望月氏や上野の小幡氏と血縁関係にあったりという縁から、望月、小幡、真田、内藤、そして上杉の援軍を小諸城に集結させ、勝頼を追って甲斐に入った織田信忠の背後を突く狙いがあったらしいだが信豊もまた小諸城主の下曾根浄喜(武田家の傍流)に背かれて殺されているにしても最期まで諦めずに戦況の打開を図る勝頼のメンタルすげえ
豆苗もやし 勝頼ってかっこいいよな
東上野の併合によって武田家は最大版図を築いたとのことですが、一方で信玄が西上作戦で手にした遠江の大半や奥三河が徳川に奪還されているので、勢力的には信玄の頃に及ばない印象を受けました。
伊豆とかも取ってたと思いますよ
武田家は、海をほぼ持たず交易による利益や軍需品の補給が出来なかったこと。周囲に上杉、北条、徳川、織田という強大な敵国に囲まれていたこと。源氏そして室町政権の頃からの旧家であったことから、戦略も家中の考え方も旧来のものだったこと。これらが不利に働いたのかな。
勝頼37歳「高天神城」を護らなかったのが悔やまれる。「求心力」って大事ですね(>.
武田家の動画面白かったです。またアップよろしくお願いします。
実におもしろかったです。武田勝頼は実際かなりのやり手だという意識はあったのですが合戦ごとの色々と細かい事情を分かりやすく解説していただけ知らなかった事情も幾つか知れて自分の中の勝頼株がさらに上がりましたわ。
大変良い動画でした。細かな時系列で私見も入らず解説してくれてすごくわかりやすいです。こうみると、長篠の戦いで滅んだというよりも、それで綻びが生じて、御館の乱と高天神城の判断がすべてでした。浅間山の噴火・・戦も強く優秀なんでしょうが、やはり運がないです。運がないと滅ぶのはディステニーです!!
最大版図が1580年とは意外。だいたい長篠合戦の前後だと思ってた。その頃はもう風前の灯だと思ってたから。信長の甲州征伐で一気に瓦解した感じなんですね。
大日本帝国の日本だって、1940年代初頭が最大領土だしね。
維持が大変
木曽征伐の段階で1万5千の兵動員できたのもすごく意外、ほんと一瞬で崩壊したんですね。
素晴らしい 詳細内容よく分かる‼️
本や教科書だと勝頼のエピソードは薄っぺらだけどこうして見ると長編のドラマが作れそうだな!
負けは少ないけど負け方が盛大なんだよな
実際、負けたのって長篠くらいで、あとの一連の甲州征伐以外はほぼ勝ち戦なんだよね〜
面白かったです!ただ海でよいます、海が動かない画だとありがたいです
高天神城救援しなかったのが甲州征伐のあっけなさの要因なのは間違いない後詰めが来ない籠城なんて長続きしませんからね北条は親織田と親武田がいて統制が取れていなかったようです
1:23この頃の海戦ってどんなんやったんやろ??大砲と弓で遠距離攻撃してから船ぶつけて白兵戦🤔?
素晴らしい!!!!
「武田本隊の強さに恐怖し」というか徳川も北条も武田と決戦なんてしてやるメリットがないんだよな多方面から領地を脅かされてる時点でもう信長の詰将棋の段階に入ってる
この武田家滅亡の最後の最後でちょっと名前が知られるようになるのが武田二十四将の一人、土屋昌次の実弟で後に片手千人斬りと呼ばれる昌恒です。はい、自分の祖先です。曾祖父まで直系でしたが祖父が確か次男とかで直系ではなくなりました(祖母が亡くなった際に葬式で本家の方々とお会いしました)。武田家滅亡の最後まで付き従った忠義を敵であった徳川家康に認められるという……昌恒の子が家康に見出され、大名になり自分ら子孫まで血が繋がると思うと複雑な心境です。
寄生獣の作者が原作の「レイリ」という漫画で、土屋惣三昌恒について知りました。子の平三郎が家康に仕える事も描かれており、その祖先の方のコメントに驚きました!
@@allmeneediscat 父方の実家は長野県ですが、信濃付近には武田家臣の子孫たちがいるとか聞いたことがあります。土屋姓も長野にそこそこいますが、みんな途中で枝分かれした遠い親戚なのでは?と思ってます。余談ですが、忠臣蔵で討ち入りがあった吉良邸の隣が土屋の家で討ち入り時に灯りをつけてあげたという話も実家で聞きました。
@@ちきんぱん 土屋太鳳ちゃんとかも子孫かも
信長の野望ペースでいくさしてるなぁ、勝頼。幾ら強くても足軽はたまらんなぁ・・・
戦国時代の平均の税率は5公5民、北条に至っては4公6民武田や島津は7公を超える負担率だったとか?三国志の蜀漢、北伐の際の税率がそのくらいでその他に一世帯、2人の兵役でした。滅んだ方が庶民は助かったもですね💦余談ですが今の日本の税率はガソリン税などの間接税もすべて含めると負担率は7割を超えて8割にも迫る有史最大の負担率です。人類の歴史上、ここまで高負担で何十年も国家運営を続けれた国は存在しないのでとても貴重なデータとなると思います(^-^;
春秋戦国時代の趙みたいですね秦という大国に接していて、本当はそこと戦わないといけないが戦力差がありすぎて対抗できない反対側の燕や斉には勝てるし、ついそっちを攻めてしまうが、本来やるべきことは秦と戦うこと結局、秦の攻勢を凌ぎきれず滅亡…人間とは目の前に大きすぎる問題があった際に、目を背けてしまうものなのでしょうか
なるほど!たしかに趙と似てますね!面白いご意見ありがとうございます!
趙は、秦に負けているのは国力です。兵の戦力は互角です。実際長平の戦も秦との長期間の対峙により、国内の食糧難が発生し、趙括が短期決戦をせざるを得ない背景があり、負けてしまったのです。趙の軽騎兵は騎射のレベルは抜きんでてるほど強く、戦国一です。
田中城は勝頼死後も依田信蕃が死守していたのでは?
徳川も北条もやっていることは古代ローマでハンニバルと戦ったマキシムスがやった「ファビアン戦法」そのものだ。まあそれだけカルタゴ軍も武田軍も強かったということではあるけど。
仁科盛信は大好きな武将
そこ)
高遠城の🌸は最高です☺️
武田家は地政学的に防衛が難しい。織田は石山本願寺を屈服させたら国力で圧倒されざるを得ないので、例え信玄存命でも守りとおすのは困難だったのではあるまいか。
1573年時点で織田家+徳川家の総石高は武田家の数倍あったので、総力戦となれば厳しいでしょうね。
@@一山秀一 畿内と濃尾平野を押さえれば、織田家の国力的に勝ちゲーだからな。本願寺の降伏は致命的だし、信玄なら氏政と同盟結べてるから東側に脅威はないが、越後の上杉謙信は信長に協力するだろうしから、最終的には織田が武田に勝利したと思う。
惜しいのは関東平野押さえてたはずの後北条氏か
こう見ると、個々の戦闘では勝頼は強いんですよね。御館の乱で北条を敵に回したのが最大の失敗かと。上野を攻める戦力を遠江に集中していれば、違った展開もあったかもしれません。まあその時は関東から北陸まで実質的に北条になってしまうので、織田と北条の挟み撃ちになり厄介かもしれませんが。
ただ景虎を支援していたら大北条に飲み込まれかねなくなりますからね。それを考えて景勝支援したのかもね
@@zunbero8070 勝頼は実際には景勝と景虎の和睦を仲介しようとしていたらしいです。 一度は和睦させる事に成功したが、家康の侵攻で勝頼達が越後を去る前後に和睦が破綻したのが実像らしいです。
@@峻-k5k ありがとうございます!
@@峻-k5k 結論として和睦仲介という判断自体が誤りだったといわざるを得ない。和睦を仲介するのではなく、景勝でも景虎でもいいので、一気に介入して、越後が弱体化する前に速攻で終わらせないといけなかった。越後が戦力にならなくなった時点で非常にまずい事態だし、まして北条を切ってまで支えた景勝をそこまで弱体化させてしまったのは大失策だと思う勝頼が実は名将だとか運がないとか言われるけど、御館の乱と高天神城での優柔不断なブレブレ外交政策こそが勝頼の能力かつ本質であってそう考えると戦場での指揮以外はへっぽこ、と評価せざるを得ないのかなと
あちこちの最前線を無理に守ろうとして崩壊したように感じました。一々甲府に戻らければいけないのは辛い。信長みたいに方面軍はなかったんですね。三枚橋城、高天神城、守らなければいけない拠点が多すぎる・・・。
信長は若いころから銭で雇った流れ者の兵を組織して、24時間365日軍事行動がとれる軍制を作りましたからね。あと、生涯目先の小さい領土にこだわらずに畿内制圧を最優先した。北信濃の数千石にこだわって長年上杉謙信と不毛な戦いをして貴重な時間を浪費した武田信玄は愚かの極み。また、上杉も武田も土着の百姓兵での戦いから脱却できなかった。
@@二階堂進-t4d 信長は豊かな尾張の国力があったからできた訳で、石高が少なく、海もない、さらに人の出入りの少ない土地の痩せた甲斐じゃその方針はとりたくてもとれない訳で…まずは貧しい自国の領国経営からスタートしなきゃいけないから信玄はその活路を信濃に求めたのよね。
@@takehiro_0421 尾張、美濃の濃尾平野がチートだからね。甲斐、信濃、駿河、遠江、三河の合計石高と濃尾平野だけで、同じぐらいある。
近隣に敵を作らないのが、戦国末期の生き残りのポイントだったのに、まだ古い時代のルールでしか動けなかった。勝頼と言うより武田家家臣含めて時代を見る目が無かった。北条との小競り合いや軍勢の移動の時間やコストを他に振り向けられれば、との思いはあったかも知れないが、有能な宿老が最早居なかった。
切ない。
本拠地を次々に変更した信長と新府程度の移動でも反対された勝頼。どちらが先進性が強い組織かは明らか
その通り。信玄は早死にしたからボロを出さずに済んだだけで、実に多くの禍根を勝頼に残して死んでいった。信玄の古さ・改革の遅さが仇になった。勝頼は可哀想だ。せめて存命中から正式に家督を譲っておけば家臣団に見下されることもなかったのに。
全くその通り。信玄を過度に持ち上げて、勝頼を貶める奴はマジでむかつく。信玄も晩年は失策続きだろうがと。
信玄が嫡男潰したのが大問題
そもそも武田滅亡のケチのつき始めは第4次川中島。信玄弟で副将の信繁、参謀山本勘助を一気に失ったダメージは余りにも大きかった。
今川氏滅亡時に、武田信玄が本拠を駿府に移し、重商主義政策と兵農分離を行えば変わったかもしれない。
圧倒的な国力差はそのぐらいで覆せるものではないですよ。
最後に勝頼を追い詰めた河尻はこのあと甲斐の国の統治を任されるも本能寺の変の混乱のなか武田残党の武士たちによって殺害されています まさに諸行無常 動画楽しかったです
小さかれ大きかれ、一つの大名が滅ぶって相当のことだよな軍事だけでなく、行政・立法・徴税ががらっと変わるし、寄親・寄子の制度も占領軍は整えなければならない。農民からしても虐殺の恐れがあるし、新しい君主の情報を得なければならない。エグいな。
勢力拡大のスピードには分相応というものがあることがよくわかる。これはどの時代、どの分野でも同じだろう。
まともに抵抗したのは高遠城と田中城くらいか… ずいぶんあっけない幕切れでしたな。
勝頼が無能なら、手堅く進行しただろうが勝頼が有能で対応能力もあるから、手広く戦線を拡大させすぎた感があるな信玄存命時に、後継者として地盤を築けていたら急がなくても良かっただろうが実績を早急に見せないといけない状況下なら、頑張る方向に突き進むのも仕方がない
信長との和睦を望んだとしても高天神城は攻められているわけですから、これを守るための軍事行動によって信長との和睦交渉に悪影響があるとは考えにくいかと。かえって守ることさえしないと相手に侮られるだけでしょう。そんなことは勝頼もわかったと思うので、実際には高天神城を救援するだけの力がなかったのではと思います。結果、配下に見捨てられることになったのでは。
勝頼って・・すげぇ・・
北条を敵に回しておいて織田と和睦を願うとか外交センスが悪い、わずかなどうでもいい所領欲しさに景虎見捨てたのが根源、大局観が悪い。結果論だけど。
景虎の苗字は上杉だけど血筋は北条だから、もし景虎が勝ったら越後から相模まで北条家のものとなるとも言える。そうなると領土面積が2倍以上はある織田と北条の間に挟まれて武田は危機的状況に陥ることもありうると勝頼は思ったのかもしれない。
@@natsuka8972 まだ武田生き残る可能性あるんだから景虎支援すべきでしょ
この動画を見る限り、武田が上杉と組んだメリットが皆無。一方で、北条を敵に回したデメリットは計り知れない。
北条、徳川に振り回されて国内は疲弊。7公3民以上の重税を課せられていたとの話も有り、国人衆や民からも見放されていたからなぁ。木曽の裏切りは、こうした状況と強大な織田を相手に真っ先に相手にしなければ成らない状況を見れば、寧ろ予想出来た事だけどね。
何度も出兵させられた挙句いざ決戦となれば逃げられて出費ばかりかさむ武田軍。織田兵の5倍の強さがここに来て仇となったか。
非常に分かりやすい動画ありがとうございました。あっという間に時間が過ぎました。北条を敵に回した時点で武田家の滅亡は決まったのも同然でしたね。信長を倒すことだけに集中すれば良いものを様々な事に手を出して信長包囲網を形勢するはずが、武田包囲網で四面楚歌となり滅亡。あと勝頼の人望のなさも滅亡の時期を早めましたね。
あれですよね。もしも新府城に勝頼がその時にいた手持ちの旗本衆込めて籠城したら、どうなってたかのシュミレートはほしいですよね。幕末の会津若松の籠城みたくゲリラが助けてくれるパターンとか。何せ織田には明智光秀っていうポリシーがよくわからない武将がいますから(笑)。諏訪上原城で籠城すべしって議論もあったんですけど、穴山梅雪が裏切ったって情報が入って、たちまち意思が崩壊してしまったって話ですよね
如何せん親父が嘘付きすぎて、武田家その物に一切の信用がなかった。そのため周辺国と纏まることが出来ず、織田に文字通り各個撃破されていった。また、先手を打って降伏しようにも版図が見かけ上大きすぎ、何より武田家の格が高すぎて降伏出来なかった。まあ、生まれながら詰んでる珍しいケース。
どのみち武田家としては最大支配地を広げすぎたのも良くないけどね、身分不相応な戦線の拡大はリスクが非常に大きい。どうしても甲斐と信濃の生産性の低さは豊潤な濃尾平野や関東平野に比べるともうね、石高=兵力の動員力と考えれば武田家が織田家や徳川家、或いは北条家に勝てる理由など無いんだよなぁ。むしろ時が経てば経つほど武田家とそれ以外の国力の差は開くばかりだろ。信玄の時代から既に武田は織田や北條に滅ぼされるのが確定してる気がする、例え信玄が存命でもね。よく武田信玄と上杉謙信があと10年長生きしてればと言うけど、その2人に天下取りは無理だよ立地的にもノーチャンス。むしろその2人は織田信長と決戦前にあのタイミングで死ねて名誉が守れてラッキーだったと思うよ。信長に勝てる可能性はほぼほぼ0%だし。
御館の乱で目先の利益に目がくらんだのが最大の判断ミス
北条は上杉と武田が共倒れになれば大万歳そんなに舎弟が大切ならば北条氏政自ら出陣すべし、
新府城で新年を迎えてから数ヶ月で滅亡、崩壊もスケールがでかくてドラマチック!精強な武田軍とともに勝頼も名将だと思いますが、戦略レベルでの失敗が目立ってしまいますね。。武蔵の切り取りに目を奪われていたところを信長に利用された感じで、信長の方が数枚上手な印象です。結局、1度も決戦する機会が得られなかったのは無念だったことでしょうね。。
上杉ではなく北条と同盟を結び、武田本隊が徳川を攻撃する展開が見たかったなあ。
北条と結べば越後は景虎のものになり越後から関東まで大北条帝国が出来上がってしまいます。それは北条の下部になれということであり、誇り高い勝頼には出来ないでしょう。なので自分を兄のように慕って助けを乞うた景勝寄りにたったのです。
負けに不思議な負けなし
高天神城を見捨てた代償は、大きかった。失策だ。
高天神城の兵を撤退させなかったのが運の尽きだな。彼らは地元出身の兵じゃないんだから見捨てられたと風評が立ったら、出身地の親族連中が勝頼を見捨てるわな。まあ、その前に御舘の乱で北条と敵対した時点で詰みなわけだが。
長篠は武田家の関ヶ原。大敗北によって影響力が一気に消滅。勝頼はダメなヤツとレッテルを貼られてしまった。
動かせる軍勢が少ないのに領地を広げすぎたのと、忠誠心が低い家臣に国境の城を任せすぎましたね。
こうしてみると長篠の戦い後も武田は強かったみたいね徳川北条の慎重さが物語ってるただ徳川北条に比べて戦い方を分かってない感じを受けるむしろ勝頼には武力しかないから決戦で潰したい、徳川北条は正面から戦えば負けるのでそれを上手く避けている勝頼がもっと柔軟に立ち回れば滅亡はなかったように思うネットでは信玄批判が多いけど、これを見る限りやはり滅亡の原因は勝頼だと思える
ひー そもそも信玄の方が何倍も悪いけどな。(駿河侵攻で優秀な嫡男 義信を殺して、嫡男として育てられなかった勝頼を嫡子(といっても陣代)に命じ、無理やり西上作戦開始して……、
@@Prasident-gm4li しかも度重なる戦や金山の枯渇で財政的にも厳しい状況を打破する為かは分かりませんが、今川領を分ける時の家康との約束を欲を出して破り、信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら西上作戦を始めて家康を攻撃し、信長を激怒させてますよね。
ないすすぎいいいい
まぁ勝頼も信玄死後9年もよく頑張った方だと思う。勝頼じゃなくても信玄みたいなカリスマ武将の死後いくら頑張っても滅亡は避けられなかったかなと思う。ちなみに勝頼の最大のミスは、やはり長篠設楽原の戦いでの多くの優秀な部下や兵が亡くなってしまった大敗北だと思う。
しれっと有能さを見せる真田昌幸さん。それにしても、この時期に武田に寝返る連中は時代の流れを見る目がないな。
まあ目先の利益に釣られた浅ましい奴だったんだろうな。
ベルリン攻撃の直前に独軍に亡命したロシア兵もいたそうで・・・人間の心理の不思議なところ
それ状況や縁戚とかなにも知らないから言えるんでしょうが色々あるんです。
笠原正晴:北条家の重臣松田憲秀の長男で、同じく北条家臣の笠原康勝の養子に入り徳倉城主となる。1581年10月に武田方から内応を持ちかけられ北条家から寝返る。やはり多少の利益に釣られて寝返った、先を見る目が無いやつだったんだろうな。
このコメントは矛盾していると思います。真田昌幸も、この時期上州の国人たちに、武田へ寝返るよう働きかけていたわけですから。
長篠後も、勝頼の武威を徳川と北条がいかに警戒してたがよくわかった。そして、織田信長の真綿でじわじわ攻めつつ、信忠を気遣いつつ、一気の攻め。勝頼直臣は最後まで残ったんだろうなって感じた。特に土屋の奮闘があればこそ、徳川政権下で老中になる家柄にもなれた。それにしても信廉、信豊、梅雪の弱さ酷さたるや。。。
小山田信成、木曾義昌も忘れてはならん
北条氏政ワロタ🤣🤣🤣🤣🤣
東上野でなく、西上野では?
沼田は東上野だけど?上野を大体真ん中で線を引いてみ?ちょっと所か明らかに東やで
2月14日の浅間山噴火について異見を述べたい。まず噴火の出典が京都や奈良にいる公家日記やフロイスの日本史であること。そして記述によると京都から、果ては豊後からも見えたとあること。地元の史料に無いのはおかしいし、日本史の記述もよく読めば噴火とは一言も書いてない。もしあったにしても、京都?豊後?まで見えたならそれは破局噴火レベルだろう。江戸時代の富士宝永噴火でも京都から見えた記録はないしね。でも火山学の観点で見れば、1582年に噴火した痕跡すら見つかってない。豊後まで見えたのに?である。またその規模なら付近の真田昌幸の領国は壊滅するはず。通説だと矛盾だらけなんだよ。無かった、とは言わない。あるとすれば2014年御嶽山噴火クラスの、ごく小規模なものだと思う。それでも煙がモクモクと上がれば民衆は畏怖するよね。
長篠ですぐに没落したイメージでしたがこのあとに最大版図を達成してたのは意外でしたこれによって最大版図を得た織田信長が本能寺の変で事実上滅ぶことになるのは皮肉ですね
最近の説では長篠の合戦は流れ一つで最大の理由は単純に国力差らしいですね。
最大版図を手に入れたはいいけどどこも貧しい土地ばかりで維持コストばかりかかっていたようだ。
北条が優柔不断だったのはこの頃からなのか?
氏政さん、この動画ではいいところが全くなかったねw
北条の滅亡の原因も垣間見える動画でしたね
実際、決断力が無いのは割と知れ渡ってたから、敢えて織田も北条に情報を送らなかった節がある。実際、信濃、甲府、西上野は織田の支配下になる訳だし…
氏政は父氏康にも馬鹿息子と言われてたそうで、、
他の動画もぜひお願いします
本物で草
天に見放されたんですね
詳しい解説と地図でわかりやすいかな( ^ω^)・・⓵~②③④以上と、たとえなったとしても、1回が15分から20分まででの動画は見やすい感じ。それ以上だと例えば40分とか見るきがしないし・・
勝頼もあと半年持ちこたえていたら、武田家の趨勢も違ったものになっていたろうに。その無念さが推し量られます。
真田に行けばよかった
@@THE.Everestlist 小山田信茂の方が譜代の家臣だったので、致し方なかろう所ですが、穴山梅雪のようなほぼ一門衆でも寝返ったことを思えば、本当にそう思います。捲土重来を図れたやもしれぬのに、惜しいことです。
国内が疲弊し過ぎて半年後でも変わらないでしょうね。唯一、小県だけやり繰り出来ていて、味方してくれそうな上杉が隣国だったので、其方に移っていれば、もしかしたら生き残れたかも知れないけど…
@@ピリからもやし 武田の内部事情は厳しいでしょうね。高天神城見殺しによる求心力低下も変わらないだろうし。ただ織田に滅ぼされる事実からの回避は間違いない訳で、色んなifは見てみたいものです。
@@THE.Everestlist 真田はこの頃には勝頼差し出して北条に臣従するという手紙出しているからどのみち助からなかった可能性大きいよ ちなみに手紙は実存している
本能寺の変が起きたあとに武田が生き残っても秀吉に攻め滅ぼされそう
秀吉とガチバトルしてた毛利家も許されたから平気だと思うぞ
@@雑草という草はない 毛利家は秀吉にとってある意味恩人だもん。武田家とは違う。
勝頼の武田家最大版図達成とかよく言うけど、無理があるのは、誰が武田家の版図を1番拡大したのかは、信玄なのは明らかであり、だから勝頼の武田家最大版図達成は全く無意味な表現だと言えると思う。
甲州征伐には確かに北条との同盟決裂や高天神城の件もありますが、義昭が京を去っていた事が一番の痛手だったと思っています。一向衆、浅井、朝倉、三好も義昭から朝廷に働きかけて和睦に繋がっていました。今回、義昭がいなく逆に正親天皇から「朝敵」とされた為に孤立し離反者に拍車をかけたように思うんです。童画の内容と合わせて上記の内容が勝頼の苦難の内にあると思います。
甲州征伐の前に浅井、朝倉、本願寺、義昭は皆敗れて畿内は織田信長に完全に押さえられ、西に毛利の抑えと北の上杉に兵を割くだけで、残りを全て甲州征伐に向けれた事で勝負は決まっていた
@@ピリからもやし 義昭が二条城に居た時には潰される前に和睦に繋げられたのが居なくなったからそうなったんです。きちんとコメント読みましょうね?
武田軍団強すぎたんやろうな。
兵士が強すぎるが故に決戦を避けられ、その度に出費がかさむ武田陣営。滅亡までの流れが超大国アメリカと戦った旧帝国陸海軍そっくりだ。
信長は武田が領土を拡大させてもそれを維持する兵力や経済力が無いのをわかっていた気がしますけどね、タイミングを見計らって攻勢に出た感じがするなぁ。
黒川金山が底尽きた時点で武田お終いよな、、
滅んだんだけど、武田勝頼って何気にすごい人だったんだな。長篠の後、領地最大化なんて、なかなか出来ないよね。最後は包囲されちゃって不運だったな。
長年のカツヨリストです🙌もう、経済的、組織的にも自転車操業だったんだと思います😢拡げなきゃ凋んじゃう。かといって織田が日々強くなっている中、長期的計画なんて立てられない…信玄が亡くなった後すぐ織田に臣従でもしない限り、勝頼は武田を残す事は出来なかったと個人的に思います。
馬場、山縣、内藤が生きていれば…
長篠の戦いが悔やまれますね
信長の野望のやりすぎ生きていても結果は同じ
重用されなければどんな有能な人物でも宝の持ち腐れだよ。
なお、その四名臣の間でも織田徳川方面の山県・馬場と上杉、関東方面の高坂・内藤とで主攻を巡って対立しており勝頼が仲裁に入ってどちらにも兵力を配置するというどっちつかずの対応を長篠直前にはしていた模様
@@暁は水平線 それは、知らなかったです。ありがとうございます☺️
信濃方面には進軍せず河越夜戦の時、武田晴信が北条攻めに加担して、そのまま滅亡までさせていたらどうなっていたか?
関東諸将や越後長尾との戦い
たらればではあったが、景勝公との上杉とはメリットがなかったのが一番まずかった。北条と戦うデメリットがなければ、景虎公上杉と盛り返せたが。
上杉景虎の手助けをして景虎が上杉家当主になっていたら甲相越で同盟を組んで西部戦線(美濃遠江三河方面)に集中できたんじゃないかな?
@dsa さん、そんな噂ありましたね。ただ、確認できているのは勝頼公の兄、次男竜芳だけとか?景勝のに嫁いだ家来がなんだかんだで弟では疑惑があったて話しですね。
新田次郎原作乃、武田勝頼を大河ドラマ出お願いします。
周りに敵が多すぎる
さすがに織田徳川北条を敵に回したらな周囲から蹂躙されて終わったね
勝頼振り回されすぎ、この後半部はもう詰将棋の雰囲気がありますね。勝頼にしてみれば御盾以降は北条領を併せて信長と再度決戦、が唯一の道だったんだろうけど、あまりにも見え見えすぎて信長に遊ばれている観すらある。それに重きを置くあまりの高天城あたりの判断はもうメチャメチャで、信玄が後継者に出来なかったのも宜なるかなと。序盤に裏切った小笠原は名族信濃守護家ですかね、強くない武田と心中する道理がない。象徴的だよなあ。仮に真田領に逃げて逼塞したら、光秀が信長に反旗を翻す時節は来ないのでは?いち真田家と違い、武田家本体が無事となると甲斐信濃が一気に靡く可能性は残るし、果たして本能寺の変を起こす気になるほど織田家が絶対的になるだろうか。石山本願寺よろしく、こんどは真田攻めで長期難渋する織田家という図式ができあがっていたのかな。戦国が長期化すると、伊達政宗あたりにも芽が出てきますかね…。勝頼という人間の一つの判断で随分と違った歴史が有り得そう。
最後の文章は本当にその通りだと思います。実は御館の乱の武田勝頼の判断は一歩下手をすると現在の日本の芸能界と東京都のある地方公共団体の運命を全く違ったものにしてしまった可能性もありました。
戦争しまくってマンパワーと金が尽き、そこから周囲に袋叩きにされるEU4負けプレイの典型
中国もそんな感じになりそうだよね。戦狼外交は本当意味ない。
決戦を申し込むとかまだあったんだ。鎌倉時代みたい。
まぁ武田信玄には子孫が今でも居るから厳密には「武田家」は滅亡はしていないよね
武家として家が成り立たないと「滅亡」って表現しますからね今川とか北条とか
武田家を継いだのが勝頼でその息子が正式な跡継ぎで潰えてるんで滅んでますよ。信玄の次男の家系は血脈は継いでても武田家ではないですよ。
@@しりゅー-r9w さんへ確かに今川義元の息子の氏真はその後徳川家康や織田信長を頼って家臣の一人として戦国の世を生き、亡くなったのは1615年で徳川家康が亡くなる一年前でした。しかも、徳川家康よりも長く生き78歳でこの世を去りました。
長篠で重臣が死にすぎたのに、版図広げすぎて、勝頼本人が回りきれなくて瓦解してる…本人に見合った領地経営が必要やったな。若いのもあって目先の土地(利益)に釣られすぎ
勝頼は無能ではなく、周りが強すぎたと思う
相手が 信長だけなら勝てただが計三人も相手をする事になったからね北条、織田、徳川そして内なる敵
@@net1057 長篠の戦いで負けた後もなんとか領地を守っていたのにね。信長が亡くなるのがもう少し早かったら武田家滅亡もなかったかもしれない。
北条と徳川が同盟結んだ時点で相当きついですよね。その点から見ると上杉の御館の乱の煽りを一番受けたのは武田でしたね。戦国時代も時を経て、列強しか残ってないので武田からすれば大分しんどい時期です。
@@京大合格-d7s 信長は、武田が滅んだからその反動で油断し消え去った。だが、どーにか信長が先に死んで欲しかった
@@ダイワ暁スカーレット 佐竹にはもっと、北条領に進攻して欲しかった
甲斐武田家が滅亡したと言っても分家の安芸武田家は今も子孫が残ってるぞ。それと、武田勢の急激な崩壊は銀山の枯渇とも関係が深い。
それを言ったら甲斐武田氏も大名としては滅んだけど、信玄次男の海野信親の家系(高家旗本武田氏)と七男の信清の家系(米沢武田氏)が今も残ってるけどな
地味に分家扱いされてるけど若狭武田家が武田家の本家で、甲斐武田家は安芸武田家と同様分家ですよ。
長篠で大負けした後の勝頼相手に、北条もあの家康さえも武田正規軍とは真正面からは戦っていないのか。武田と真正面から戦っていい勝負したのは信玄時代の謙信だけか。その強い武田も北信濃の村上には手を焼き、同じく北信濃の真田にはきっと頼りにしていたであろう。甲府から北信濃さらに春日山へ至る地域ともうひとつ、九州の島津鹿児島から立花の前筑紫へ至る地域の武将らが戦国時代の日本で最も強いと思う。
南条英機 最初は真田も村上側だったしね
@@田中流星-k9r真田と村上は長年の宿敵であり真田は海野氏一族と親戚で村上側だった事は一度もない。武田によって海野が滅んだ後は関東管領上杉氏(当時長尾家の謙信とは別)を頼って上州に逃れたのち旧領取り戻す為に武田側についたらしい。ちなみに数年後村上義清は武田に攻められたのち長尾方について川中島で真田村上はまたも敵対したとのこと
武田家滅亡の引き金は(長篠の戦い)じゃなくて(高天神城)落城じゃないか!トドメは浅間山噴火・・・弱り目に祟り目か。貧すれば鈍かも(ん、諏訪大社に放火?心頭滅却すれば火もまた涼しい?)20200303 19:13
父信玄が落とせなかった高天神城を落とした事により勝頼は武田家内での当主の地位を固めたが、その高天神城を見殺しにした事により武田家滅亡のキッカケを作ってしまうとか、運命的な城だな
親父が酷い扱いをしていなければ、勝頼は名将として輝いていただろうに。長篠の戦いの遠因は親父だな。
バカな親を持った子は苦労するわな。勝頼も最後は信玄を恨んで死んでいったのではないだろうか。
そもそも、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れて討ち死にしたことが原因でしたが、その後信玄が今川家を乗っ取ろうと今川・武田・北条の三家で結ばれた三国同盟を破ったこと、そして、それに反対した嫡男の義信を幽閉し切腹に追い込んだことが最大の要因となりました。
しかも信玄が旧今川領を分ける時の約束を欲を出して破って家康と揉めただけでなく、信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら西上作戦で家康を攻めて信長を激怒させていますもんね。
改めて勝頼公最強を再認識できた良い動画でした。教科書でも、どの小説でも、「長篠の戦の結果=武田滅亡」というニュアンスです。しかし、長篠の戦のあと、これだけ武田家が奮闘し版図拡大したとはビックリ。勝頼公の機動力と、アクティブさはすごいですね。四六時中あらゆるところに出陣して行くなんて、ものすごい気力と体力。健康維持も大変だったことでしょう。戦国大名とは、ほとほと大変な仕事です。コロナだのマスクだの騒いでいる現代人には、とても真似できません。仁科盛信は、ほんと天晴な武将です。
武田勝頼は周りにイエスマンばかり置いてたのが良くなかった。城攻めも上手く、平野での戦いでは無敵の強すぎる大将も信長のマムシ戦術にやられた。
武田勝頼の統治の源泉が強い武田本軍だということがよく分かる。本軍への信頼が消えた時の瓦解の速さが凄まじい。
特段武田勝頼ファンでもないのですが、終焉の地である景徳院には何度も訪れています。
今ですら何もない静かな寒村の地域。名家の終焉の地としては寂しくもあります。
武田家は長篠の戦いに敗れてから一気に衰退したようなイメージがありますが、決してそんなことないんですね。
領地は信玄の時代をも超えていますし、徳川や北条も勝頼本体との決戦はことごとく避けまくってます。
勝頼は決して無能な暗愚の将ではかったのでしょう。当初は外交面でも手腕を発揮して成果を出していますね。
勝頼から見てマイナス面としては、信長という調略も含めた戦の天才がいたこと、
甲斐という内陸国であるが故に四方八方に気を配る必要があったこと、
信玄の実子であるにもかかわらず、信、の字が与えられていなかったこと(有形無形の求心力)
などが複雑に絡んでいたのかもしれない。
最後の最後に小山田氏に見限られ、四十余名の手勢でを引き連れて落ち延び、景徳院で切腹するまでの心境に想いを馳せると誠に忍びない。
見ていて辛くなるほど
敵に囲まれ味方は次々逃亡
勝頼の心中を慮ると辛いものがある
朝倉義景然り決戦に敗戦後や逃亡中にもう一大決戦できる例ってどれだけあるんでしょうね。
朝廷の仲介なくそれが成った事はないんでしょうが……。
もう少し持てば本能的の変で良くなったかもね!
久保田健 持ち堪えてたら信長は京都に戻らないだろうし本能寺の変は起こらないのでは?
Operation V
それ、
信長は戻らない。
毛利はもう降伏寸前だし
勝頼享年37だったのか、今の自分と同年齢だと気付いた。
合掌。
勝頼って、信玄以上にドラマ性ありますね。信玄はひたすら拡大期でしたが、勝頼はいい時代も滅びの時代もあって、武田2代か信虎入れて武田3代で大河ドラマ作って欲しい
武田信虎=平幹二朗(天国から出演)武田信玄=中井貴一 武田勝頼=堤真一
分かります!!!
すっげー分かりみが深い。
武田信玄は大河ドラマでやりましたよ。
TheSiny777
堤真一は嫡男、武田義信ですね。勝頼は真木蔵人。
それなら今だかつてない武田家の家臣たちにスポットを当てた「武田二十四将」がいい。
信虎時代から武田滅亡までを。
非常に詳細な解説動画をありがとうございました。
勝頼も長篠と高天神城の救援以外は的確な判断をしていたんだなと思います。
それにしても、これだけ戦をしていると、駆り出される方も大変だったでしょう。
そういう面も最期の瓦解が早かったことにつながったと思います。
本当ですね。戦い続けないと領内がまとまらなくなるといった自転車操業みたいな感じだったのかと思いました。
出兵と略奪位しか産業が無かった武田の限界と言ったところですかね。兵は殺した位では死なない位強かったが。
版図を広げ過ぎた事、国内が疲弊しているのに戦に明け暮れた事、上杉の後継者争いに介入して北条を敵に回してしまった事。全てが悪い方に進んでしまった。これらの事を踏まえた上でも勝頼が優秀なのかね?
そもそも本拠地がど田舎の甲州だった時点で武田は織田と戦えるとは思えないが。
@@杉田竜馬 そしてその織田を敵に回したのは信玄なんだよなぁ
良い動画だった、長篠の戦い後の勝頼の行動が分かる作品ってなかなかないから大変勉強になった
事実を細かく教えてくれる面白い動画でした。勝頼も善戦してたのですね。人心掌握ができていなかったのが最大の要因な気がしました。
浅間山の噴火、武田勝頼にとってタイミングが悪すぎる。
それな。
非常にわかりやすい動画で、自分の間違つた知識の修正ができた。有難う。武田勝頼は決して歴史家が言う愚鈍な武将ではなかったと言って良い。
歴史学者はそんな事言ってなかったと思う!
小説とかでいろいろ遜色されてるのが大きいです。
関ヶ原での上杉景勝と石田三成が連携してたとか、豊臣家が滅んだのは淀のせいだとかもそう!全部歴史的事実ではないらしいです!
歴史は何が真実か分からないから楽しい😊
徳川にとって強いと思われたほうが得する武将の評価は高く、暗愚と思われたほうが得する武将の評価は低くなる傾向があるとよく言われますね。
前者の代表は武田信玄や真田信繁。
後者の代表は石田三成や武田勝頼。
信玄って凄いからうちですら負けたんだよ。だから馬鹿な息子が後を継いだら勝てたでしょ?
みたいな。
愚将ではないが、ここぞの時に判断を誤って普代に見限られたのが、残念
最後は完全に「信長の野望」状態だったのね
早い投稿ありがとうございます。
最大版図からの怒濤の崩壊。
包囲と逆包囲の均衡が崩れ、信長の天下取りも王手がかかる。
顕如の戦線離脱から高天神城の失陥。ショックの連続というところか。
それにしてもその後の八面六臂、獅子奮迅の勝頼の戦いは有能以上のものがあると感じさせられました。
配下の武将も最初から見限っていたのではなく、よく付いていった方だと思います。
これほど方々から攻められると次第に離れざるを得なかったのだろうと思わざるを得ませんね。
実質群雄割拠の終焉を決定づけた戦い。
明智光秀が何かを思い始めたのも何となく分かる気がします。
ちなみに勝頼は小山田信茂の元に向かう前に、従兄弟の武田信豊(武田信繁の息子)を信濃の小諸城に派遣してる
これは信豊が信濃の望月氏や上野の小幡氏と血縁関係にあったりという縁から、望月、小幡、真田、内藤、そして上杉の援軍を小諸城に集結させ、勝頼を追って甲斐に入った織田信忠の背後を突く狙いがあったらしい
だが信豊もまた小諸城主の下曾根浄喜(武田家の傍流)に背かれて殺されている
にしても最期まで諦めずに戦況の打開を図る勝頼のメンタルすげえ
豆苗もやし
勝頼ってかっこいいよな
東上野の併合によって武田家は最大版図を築いたとのことですが、一方で信玄が西上作戦で手にした遠江の大半や奥三河が徳川に奪還されているので、勢力的には信玄の頃に及ばない印象を受けました。
伊豆とかも取ってたと思いますよ
武田家は、海をほぼ持たず交易による利益や軍需品の補給が出来なかったこと。
周囲に上杉、北条、徳川、織田という強大な敵国に囲まれていたこと。
源氏そして室町政権の頃からの旧家であったことから、戦略も家中の考え方も旧来のものだったこと。
これらが不利に働いたのかな。
勝頼37歳「高天神城」を護らなかったのが悔やまれる。「求心力」って大事ですね(>.
武田家の動画面白かったです。
またアップよろしくお願いします。
実におもしろかったです。武田勝頼は実際かなりのやり手だという意識はあったのですが合戦ごとの色々と細かい事情を分かりやすく解説していただけ知らなかった事情も幾つか知れて自分の中の勝頼株がさらに上がりましたわ。
大変良い動画でした。細かな時系列で私見も入らず解説してくれてすごくわかりやすいです。こうみると、長篠の戦いで滅んだというよりも、それで綻びが生じて、御館の乱と高天神城の判断がすべてでした。浅間山の噴火・・戦も強く優秀なんでしょうが、やはり運がないです。運がないと滅ぶのはディステニーです!!
最大版図が1580年とは意外。だいたい長篠合戦の前後だと思ってた。その頃はもう風前の灯だと思ってたから。
信長の甲州征伐で一気に瓦解した感じなんですね。
大日本帝国の日本だって、1940年代初頭が最大領土だしね。
維持が大変
木曽征伐の段階で1万5千の兵動員できたのもすごく意外、ほんと一瞬で崩壊したんですね。
素晴らしい 詳細内容よく分かる‼️
本や教科書だと勝頼のエピソードは薄っぺらだけどこうして見ると長編のドラマが作れそうだな!
負けは少ないけど負け方が盛大なんだよな
実際、負けたのって長篠くらいで、あとの一連の甲州征伐以外はほぼ勝ち戦なんだよね〜
面白かったです!
ただ海でよいます、海が動かない画だとありがたいです
高天神城救援しなかったのが甲州征伐のあっけなさの要因なのは間違いない
後詰めが来ない籠城なんて長続きしませんからね
北条は親織田と親武田がいて統制が取れていなかったようです
1:23
この頃の海戦ってどんなんやったんやろ??
大砲と弓で遠距離攻撃してから船ぶつけて白兵戦🤔?
素晴らしい!!!!
「武田本隊の強さに恐怖し」というか徳川も北条も武田と決戦なんてしてやるメリットがないんだよな
多方面から領地を脅かされてる時点でもう信長の詰将棋の段階に入ってる
この武田家滅亡の最後の最後でちょっと名前が知られるようになるのが武田二十四将の一人、土屋昌次の実弟で後に片手千人斬りと呼ばれる昌恒です。
はい、自分の祖先です。曾祖父まで直系でしたが祖父が確か次男とかで直系ではなくなりました(祖母が亡くなった際に葬式で本家の方々とお会いしました)。
武田家滅亡の最後まで付き従った忠義を敵であった徳川家康に認められるという……
昌恒の子が家康に見出され、大名になり自分ら子孫まで血が繋がると思うと複雑な心境です。
寄生獣の作者が原作の「レイリ」という漫画で、土屋惣三昌恒について知りました。子の平三郎が家康に仕える事も描かれており、その祖先の方のコメントに驚きました!
@@allmeneediscat 父方の実家は長野県ですが、信濃付近には武田家臣の子孫たちがいるとか聞いたことがあります。土屋姓も長野にそこそこいますが、みんな途中で枝分かれした遠い親戚なのでは?と思ってます。
余談ですが、忠臣蔵で討ち入りがあった吉良邸の隣が土屋の家で討ち入り時に灯りをつけてあげたという話も実家で聞きました。
@@ちきんぱん 土屋太鳳ちゃんとかも子孫かも
信長の野望ペースでいくさしてるなぁ、勝頼。
幾ら強くても足軽はたまらんなぁ・・・
戦国時代の平均の税率は5公5民、北条に至っては4公6民
武田や島津は7公を超える負担率だったとか?
三国志の蜀漢、北伐の際の税率がそのくらいでその他に
一世帯、2人の兵役でした。滅んだ方が庶民は助かったもですね💦
余談ですが今の日本の税率はガソリン税などの間接税もすべて含めると
負担率は7割を超えて8割にも迫る有史最大の負担率です。
人類の歴史上、ここまで高負担で何十年も国家運営を続けれた国は
存在しないのでとても貴重なデータとなると思います(^-^;
春秋戦国時代の趙みたいですね
秦という大国に接していて、本当はそこと戦わないといけないが戦力差がありすぎて対抗できない
反対側の燕や斉には勝てるし、ついそっちを攻めてしまうが、本来やるべきことは秦と戦うこと
結局、秦の攻勢を凌ぎきれず滅亡…
人間とは目の前に大きすぎる問題があった際に、目を背けてしまうものなのでしょうか
なるほど!たしかに趙と似てますね!面白いご意見ありがとうございます!
趙は、秦に負けているのは国力です。兵の戦力は互角です。実際長平の戦も秦との長期間の対峙により、国内の食糧難が発生し、趙括が短期決戦をせざるを得ない背景があり、負けてしまったのです。趙の軽騎兵は騎射のレベルは抜きんでてるほど強く、戦国一です。
田中城は勝頼死後も依田信蕃が死守していたのでは?
徳川も北条もやっていることは古代ローマでハンニバルと戦ったマキシムスがやった「ファビアン戦法」そのものだ。まあそれだけカルタゴ軍も武田軍も強かったということではあるけど。
仁科盛信は大好きな武将
そこ)
高遠城の🌸は最高です☺️
武田家は地政学的に防衛が難しい。織田は石山本願寺を屈服させたら国力で圧倒されざるを得ないので、例え信玄存命でも守りとおすのは困難だったのではあるまいか。
1573年時点で織田家+徳川家の総石高は武田家の数倍あったので、総力戦となれば厳しいでしょうね。
@@一山秀一 畿内と濃尾平野を押さえれば、織田家の国力的に勝ちゲーだからな。本願寺の降伏は致命的だし、信玄なら氏政と同盟結べてるから東側に脅威はないが、越後の上杉謙信は信長に協力するだろうしから、最終的には織田が武田に勝利したと思う。
惜しいのは関東平野押さえてたはずの後北条氏か
こう見ると、個々の戦闘では勝頼は強いんですよね。
御館の乱で北条を敵に回したのが最大の失敗かと。上野を攻める戦力を遠江に集中していれば、違った展開もあったかもしれません。まあその時は関東から北陸まで実質的に北条になってしまうので、織田と北条の挟み撃ちになり厄介かもしれませんが。
ただ景虎を支援していたら大北条に飲み込まれかねなくなりますからね。それを考えて景勝支援したのかもね
@@zunbero8070
勝頼は実際には景勝と景虎の和睦を仲介しようとしていたらしいです。 一度は和睦させる事に成功したが、家康の侵攻で勝頼達が越後を去る前後に和睦が破綻したのが実像らしいです。
@@峻-k5k ありがとうございます!
@@峻-k5k 結論として和睦仲介という判断自体が誤りだったといわざるを得ない。
和睦を仲介するのではなく、景勝でも景虎でもいいので、一気に介入して、越後が弱体化する前に速攻で終わらせないといけなかった。
越後が戦力にならなくなった時点で非常にまずい事態だし、まして北条を切ってまで支えた景勝をそこまで弱体化させてしまったのは大失策だと思う
勝頼が実は名将だとか運がないとか言われるけど、御館の乱と高天神城での優柔不断なブレブレ外交政策こそが勝頼の能力かつ本質であって
そう考えると戦場での指揮以外はへっぽこ、と評価せざるを得ないのかなと
あちこちの最前線を無理に守ろうとして崩壊したように感じました。一々甲府に戻らければいけないのは辛い。信長みたいに方面軍はなかったんですね。三枚橋城、高天神城、守らなければいけない拠点が多すぎる・・・。
信長は若いころから銭で雇った流れ者の兵を組織して、24時間365日軍事行動がとれる軍制を作りましたからね。あと、生涯目先の小さい領土にこだわらずに畿内制圧を最優先した。北信濃の数千石にこだわって長年上杉謙信と不毛な戦いをして貴重な時間を浪費した武田信玄は愚かの極み。また、上杉も武田も土着の百姓兵での戦いから脱却できなかった。
@@二階堂進-t4d 信長は豊かな尾張の国力があったからできた訳で、石高が少なく、海もない、さらに人の出入りの少ない土地の痩せた甲斐じゃその方針はとりたくてもとれない訳で…まずは貧しい自国の領国経営からスタートしなきゃいけないから信玄はその活路を信濃に求めたのよね。
@@takehiro_0421 尾張、美濃の濃尾平野がチートだからね。甲斐、信濃、駿河、遠江、三河の合計石高と濃尾平野だけで、同じぐらいある。
近隣に敵を作らないのが、戦国末期の生き残りのポイントだったのに、まだ古い時代のルールでしか動けなかった。勝頼と言うより武田家家臣含めて時代を見る目が無かった。
北条との小競り合いや軍勢の移動の時間やコストを他に振り向けられれば、との思いはあったかも知れないが、有能な宿老が最早居なかった。
切ない。
本拠地を次々に変更した信長と新府程度の
移動でも反対された勝頼。
どちらが先進性が強い組織かは明らか
その通り。信玄は早死にしたからボロを出さずに済んだだけで、実に多くの禍根を勝頼に残して死んでいった。信玄の古さ・改革の遅さが仇になった。勝頼は可哀想だ。せめて存命中から正式に家督を譲っておけば家臣団に見下されることもなかったのに。
全くその通り。信玄を過度に持ち上げて、勝頼を貶める奴はマジでむかつく。信玄も晩年は失策続きだろうがと。
信玄が嫡男潰したのが大問題
そもそも武田滅亡のケチのつき始めは第4次川中島。信玄弟で副将の信繁、参謀山本勘助を一気に失ったダメージは余りにも大きかった。
今川氏滅亡時に、武田信玄が本拠を駿府に移し、重商主義政策と兵農分離を行えば変わったかもしれない。
圧倒的な国力差はそのぐらいで覆せるものではないですよ。
最後に勝頼を追い詰めた河尻はこのあと甲斐の国の統治を任されるも本能寺の変の混乱のなか武田残党の武士たちによって殺害されています まさに諸行無常 動画楽しかったです
小さかれ大きかれ、一つの大名が滅ぶって相当のことだよな
軍事だけでなく、行政・立法・徴税ががらっと変わるし、寄親・寄子の制度も占領軍は整えなければならない。農民からしても虐殺の恐れがあるし、新しい君主の情報を得なければならない。
エグいな。
勢力拡大のスピードには分相応というものがあることがよくわかる。これはどの時代、どの分野でも同じだろう。
まともに抵抗したのは高遠城と田中城くらいか… ずいぶんあっけない幕切れでしたな。
勝頼が無能なら、手堅く進行しただろうが
勝頼が有能で対応能力もあるから、手広く戦線を拡大させすぎた感があるな
信玄存命時に、後継者として地盤を築けていたら急がなくても良かっただろうが
実績を早急に見せないといけない状況下なら、頑張る方向に突き進むのも仕方がない
信長との和睦を望んだとしても高天神城は攻められているわけですから、これを守るための軍事行動によって信長との和睦交渉に悪影響があるとは考えにくいかと。かえって守ることさえしないと相手に侮られるだけでしょう。そんなことは勝頼もわかったと思うので、実際には高天神城を救援するだけの力がなかったのではと思います。結果、配下に見捨てられることになったのでは。
勝頼って・・すげぇ・・
北条を敵に回しておいて織田と和睦を願うとか外交センスが悪い、わずかなどうでもいい所領欲しさに景虎見捨てたのが根源、大局観が悪い。結果論だけど。
景虎の苗字は上杉だけど血筋は北条だから、もし景虎が勝ったら越後から相模まで北条家のものとなるとも言える。
そうなると領土面積が2倍以上はある織田と北条の間に挟まれて武田は危機的状況に陥ることもありうると勝頼は思ったのかもしれない。
@@natsuka8972 まだ武田生き残る可能性あるんだから景虎支援すべきでしょ
この動画を見る限り、武田が上杉と組んだメリットが皆無。
一方で、北条を敵に回したデメリットは計り知れない。
北条、徳川に振り回されて国内は疲弊。7公3民以上の重税を課せられていたとの話も有り、国人衆や民からも見放されていたからなぁ。木曽の裏切りは、こうした状況と強大な織田を相手に真っ先に相手にしなければ成らない状況を見れば、寧ろ予想出来た事だけどね。
何度も出兵させられた挙句いざ決戦となれば逃げられて出費ばかりかさむ武田軍。織田兵の5倍の強さがここに来て仇となったか。
非常に分かりやすい動画ありがとうございました。あっという間に時間が過ぎました。
北条を敵に回した時点で武田家の滅亡は決まったのも同然でしたね。信長を倒すことだけに集中すれば良いものを様々な事に手を出して
信長包囲網を形勢するはずが、武田包囲網で四面楚歌となり滅亡。あと勝頼の人望のなさも滅亡の時期を早めましたね。
あれですよね。もしも新府城に勝頼がその時にいた手持ちの旗本衆込めて籠城したら、どうなってたかのシュミレートはほしいですよね。幕末の会津若松の籠城みたくゲリラが助けてくれるパターンとか。何せ織田には明智光秀っていうポリシーがよくわからない武将がいますから(笑)。諏訪上原城で籠城すべしって議論もあったんですけど、穴山梅雪が裏切ったって情報が入って、たちまち意思が崩壊してしまったって話ですよね
如何せん親父が嘘付きすぎて、武田家その物に一切の信用がなかった。そのため周辺国と纏まることが出来ず、織田に文字通り各個撃破されていった。また、先手を打って降伏しようにも版図が見かけ上大きすぎ、何より武田家の格が高すぎて降伏出来なかった。まあ、生まれながら詰んでる珍しいケース。
どのみち武田家としては最大支配地を広げすぎたのも良くないけどね、身分不相応な戦線の拡大はリスクが非常に大きい。
どうしても甲斐と信濃の生産性の低さは豊潤な濃尾平野や関東平野に比べるともうね、石高=兵力の動員力と考えれば武田家が織田家や徳川家、或いは北条家に勝てる理由など無いんだよなぁ。
むしろ時が経てば経つほど武田家とそれ以外の国力の差は開くばかりだろ。
信玄の時代から既に武田は織田や北條に滅ぼされるのが確定してる気がする、例え信玄が存命でもね。
よく武田信玄と上杉謙信があと10年長生きしてればと言うけど、その2人に天下取りは無理だよ立地的にもノーチャンス。
むしろその2人は織田信長と決戦前にあのタイミングで死ねて名誉が守れてラッキーだったと思うよ。
信長に勝てる可能性はほぼほぼ0%だし。
御館の乱で目先の利益に目がくらんだのが最大の判断ミス
北条は上杉と武田が共倒れになれば大万歳そんなに舎弟が大切ならば北条氏政自ら出陣すべし、
新府城で新年を迎えてから数ヶ月で滅亡、崩壊もスケールがでかくてドラマチック!精強な武田軍とともに勝頼も名将だと思いますが、戦略レベルでの失敗が目立ってしまいますね。。武蔵の切り取りに目を奪われていたところを信長に利用された感じで、信長の方が数枚上手な印象です。結局、1度も決戦する機会が得られなかったのは無念だったことでしょうね。。
上杉ではなく北条と同盟を結び、武田本隊が徳川を攻撃する展開が見たかったなあ。
北条と結べば越後は景虎のものになり越後から関東まで大北条帝国が出来上がってしまいます。それは北条の下部になれということであり、誇り高い勝頼には出来ないでしょう。なので自分を兄のように慕って助けを乞うた景勝寄りにたったのです。
負けに不思議な負けなし
高天神城を見捨てた代償は、大きかった。失策だ。
高天神城の兵を撤退させなかったのが運の尽きだな。
彼らは地元出身の兵じゃないんだから見捨てられたと風評が立ったら、出身地の親族連中が勝頼を見捨てるわな。
まあ、その前に御舘の乱で北条と敵対した時点で詰みなわけだが。
長篠は武田家の関ヶ原。
大敗北によって影響力が一気に消滅。
勝頼はダメなヤツとレッテルを貼られてしまった。
動かせる軍勢が少ないのに領地を広げすぎたのと、忠誠心が低い家臣に国境の城を任せすぎましたね。
こうしてみると長篠の戦い後も武田は強かったみたいね
徳川北条の慎重さが物語ってる
ただ徳川北条に比べて戦い方を分かってない感じを受ける
むしろ勝頼には武力しかないから決戦で潰したい、徳川北条は正面から戦えば負けるのでそれを上手く避けている
勝頼がもっと柔軟に立ち回れば滅亡はなかったように思う
ネットでは信玄批判が多いけど、これを見る限りやはり滅亡の原因は勝頼だと思える
ひー そもそも信玄の方が何倍も悪いけどな。
(駿河侵攻で優秀な嫡男 義信を殺して、嫡男として育てられなかった勝頼を嫡子(といっても陣代)に命じ、無理やり西上作戦開始して……、
@@Prasident-gm4li
しかも度重なる戦や金山の枯渇で財政的にも厳しい状況を打破する為かは分かりませんが、今川領を分ける時の家康との約束を欲を出して破り、信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら西上作戦を始めて家康を攻撃し、信長を激怒させてますよね。
ないすすぎいいいい
まぁ勝頼も信玄死後9年もよく頑張った方だと思う。勝頼じゃなくても信玄みたいなカリスマ武将の死後いくら頑張っても滅亡は避けられなかったかなと思う。ちなみに勝頼の最大のミスは、やはり長篠設楽原の戦いでの多くの優秀な部下や兵が亡くなってしまった大敗北だと思う。
しれっと有能さを見せる真田昌幸さん。
それにしても、この時期に武田に寝返る連中は時代の流れを見る目がないな。
まあ目先の利益に釣られた浅ましい奴だったんだろうな。
ベルリン攻撃の直前に独軍に亡命したロシア兵もいたそうで・・・
人間の心理の不思議なところ
それ状況や縁戚とかなにも知らないから言えるんでしょうが色々あるんです。
笠原正晴:北条家の重臣松田憲秀の長男で、同じく北条家臣の笠原康勝の養子に入り徳倉城主となる。
1581年10月に武田方から内応を持ちかけられ北条家から寝返る。
やはり多少の利益に釣られて寝返った、先を見る目が無いやつだったんだろうな。
このコメントは矛盾していると思います。
真田昌幸も、この時期上州の国人たちに、武田へ寝返るよう働きかけていたわけですから。
長篠後も、勝頼の武威を徳川と北条がいかに警戒してたがよくわかった。
そして、織田信長の真綿でじわじわ攻めつつ、信忠を気遣いつつ、一気の攻め。
勝頼直臣は最後まで残ったんだろうなって感じた。
特に土屋の奮闘があればこそ、徳川政権下で老中になる家柄にもなれた。
それにしても信廉、信豊、梅雪の弱さ酷さたるや。。。
小山田信成、木曾義昌も
忘れてはならん
北条氏政ワロタ🤣🤣🤣🤣🤣
東上野でなく、西上野では?
沼田は東上野だけど?上野を大体真ん中で線を引いてみ?ちょっと所か明らかに東やで
2月14日の浅間山噴火について異見を述べたい。
まず噴火の出典が京都や奈良にいる公家日記やフロイスの日本史であること。そして記述によると京都から、果ては豊後からも見えたとあること。
地元の史料に無いのはおかしいし、日本史の記述もよく読めば噴火とは一言も書いてない。
もしあったにしても、京都?豊後?まで見えたならそれは破局噴火レベルだろう。江戸時代の富士宝永噴火でも京都から見えた記録はないしね。でも火山学の観点で見れば、1582年に噴火した痕跡すら見つかってない。豊後まで見えたのに?である。またその規模なら付近の真田昌幸の領国は壊滅するはず。通説だと矛盾だらけなんだよ。
無かった、とは言わない。あるとすれば2014年御嶽山噴火クラスの、ごく小規模なものだと思う。それでも煙がモクモクと上がれば民衆は畏怖するよね。
長篠ですぐに没落したイメージでしたが
このあとに最大版図を達成してたのは
意外でした
これによって最大版図を得た織田信長が
本能寺の変で事実上滅ぶことになるのは
皮肉ですね
最近の説では長篠の合戦は流れ一つで最大の理由は単純に国力差らしいですね。
最大版図を手に入れたはいいけどどこも貧しい土地ばかりで維持コストばかりかかっていたようだ。
北条が優柔不断だったのはこの頃からなのか?
氏政さん、この動画ではいいところが全くなかったねw
北条の滅亡の原因も垣間見える動画でしたね
実際、決断力が無いのは割と知れ渡ってたから、敢えて織田も北条に情報を送らなかった節がある。
実際、信濃、甲府、西上野は織田の支配下になる訳だし…
氏政は父氏康にも馬鹿息子と言われてたそうで、、
他の動画もぜひお願いします
本物で草
天に見放されたんですね
詳しい解説と地図でわかりやすいかな( ^ω^)・・⓵~②③④以上と、たとえなったとしても、
1回が15分から20分まででの動画は見やすい感じ。それ以上だと例えば40分とか見るきがしないし・・
勝頼もあと半年持ちこたえていたら、武田家の趨勢も違ったものになっていたろうに。その無念さが推し量られます。
真田に行けばよかった
@@THE.Everestlist 小山田信茂の方が譜代の家臣だったので、致し方なかろう所ですが、穴山梅雪のようなほぼ一門衆でも寝返ったことを思えば、本当にそう思います。捲土重来を図れたやもしれぬのに、惜しいことです。
国内が疲弊し過ぎて半年後でも変わらないでしょうね。唯一、小県だけやり繰り出来ていて、味方してくれそうな上杉が隣国だったので、其方に移っていれば、もしかしたら生き残れたかも知れないけど…
@@ピリからもやし 武田の内部事情は厳しいでしょうね。高天神城見殺しによる求心力低下も変わらないだろうし。ただ織田に滅ぼされる事実からの回避は間違いない訳で、色んなifは見てみたいものです。
@@THE.Everestlist 真田はこの頃には勝頼差し出して北条に臣従するという手紙出しているからどのみち助からなかった可能性大きいよ ちなみに手紙は実存している
本能寺の変が起きたあとに武田が生き残っても秀吉に攻め滅ぼされそう
秀吉とガチバトルしてた毛利家も許されたから平気だと思うぞ
@@雑草という草はない 毛利家は秀吉にとってある意味恩人だもん。武田家とは違う。
勝頼の武田家最大版図達成とかよく言うけど、無理があるのは、誰が武田家の版図を1番拡大したのかは、信玄なのは明らかであり、だから勝頼の武田家最大版図達成は全く無意味な表現だと言えると思う。
甲州征伐には確かに北条との同盟決裂や高天神城の件もありますが、義昭が京を去っていた事が一番の痛手だったと思っています。
一向衆、浅井、朝倉、三好も義昭から朝廷に働きかけて和睦に繋がっていました。
今回、義昭がいなく逆に正親天皇から「朝敵」とされた為に孤立し離反者に拍車をかけたように思うんです。
童画の内容と合わせて上記の内容が勝頼の苦難の内にあると思います。
甲州征伐の前に浅井、朝倉、本願寺、義昭は皆敗れて畿内は織田信長に完全に押さえられ、西に毛利の抑えと北の上杉に兵を割くだけで、残りを全て甲州征伐に向けれた事で勝負は決まっていた
@@ピリからもやし
義昭が二条城に居た時には潰される前に和睦に繋げられたのが居なくなったからそうなったんです。
きちんとコメント読みましょうね?
武田軍団強すぎたんやろうな。
兵士が強すぎるが故に決戦を避けられ、その度に出費がかさむ武田陣営。滅亡までの流れが超大国アメリカと戦った旧帝国陸海軍そっくりだ。
信長は武田が領土を拡大させてもそれを維持する兵力や経済力が無いのをわかっていた気がしますけどね、タイミングを見計らって攻勢に出た感じがするなぁ。
黒川金山が底尽きた時点で武田お終いよな、、
滅んだんだけど、武田勝頼って何気にすごい人だったんだな。長篠の後、領地最大化なんて、なかなか出来ないよね。最後は包囲されちゃって不運だったな。
長年のカツヨリストです🙌
もう、経済的、組織的にも自転車操業だったんだと思います😢
拡げなきゃ凋んじゃう。
かといって織田が日々強くなっている中、長期的計画なんて立てられない…
信玄が亡くなった後すぐ織田に臣従でもしない限り、勝頼は武田を残す事は出来なかったと個人的に思います。
馬場、山縣、内藤が生きていれば…
長篠の戦いが悔やまれますね
信長の野望のやりすぎ
生きていても結果は同じ
重用されなければどんな有能な人物でも宝の持ち腐れだよ。
なお、その四名臣の間でも織田徳川方面の山県・馬場と上杉、関東方面の高坂・内藤とで主攻を巡って対立しており勝頼が仲裁に入ってどちらにも兵力を配置するというどっちつかずの対応を長篠直前にはしていた模様
@@暁は水平線
それは、知らなかったです。
ありがとうございます☺️
信濃方面には進軍せず河越夜戦の時、武田晴信が北条攻めに加担して、そのまま滅亡までさせていたらどうなっていたか?
関東諸将や越後長尾との戦い
たらればではあったが、景勝公との上杉とはメリットがなかったのが一番まずかった。北条と戦うデメリットがなければ、景虎公上杉と盛り返せたが。
上杉景虎の手助けをして景虎が上杉家当主になっていたら甲相越で同盟を組んで西部戦線(美濃遠江三河方面)に集中できたんじゃないかな?
@dsa さん、そんな噂ありましたね。ただ、確認できているのは勝頼公の兄、次男竜芳だけとか?景勝のに嫁いだ家来がなんだかんだで弟では疑惑があったて話しですね。
新田次郎原作乃、武田勝頼を大河ドラマ出お願いします。
周りに敵が多すぎる
さすがに織田徳川北条を敵に回したらな
周囲から蹂躙されて終わったね
勝頼振り回されすぎ、この後半部はもう詰将棋の雰囲気がありますね。
勝頼にしてみれば御盾以降は北条領を併せて信長と再度決戦、が唯一の道だったんだろうけど、あまりにも見え見えすぎて信長に遊ばれている観すらある。
それに重きを置くあまりの高天城あたりの判断はもうメチャメチャで、信玄が後継者に出来なかったのも宜なるかなと。
序盤に裏切った小笠原は名族信濃守護家ですかね、強くない武田と心中する道理がない。象徴的だよなあ。
仮に真田領に逃げて逼塞したら、光秀が信長に反旗を翻す時節は来ないのでは?
いち真田家と違い、武田家本体が無事となると甲斐信濃が一気に靡く可能性は残るし、果たして本能寺の変を起こす気になるほど織田家が絶対的になるだろうか。
石山本願寺よろしく、こんどは真田攻めで長期難渋する織田家という図式ができあがっていたのかな。
戦国が長期化すると、伊達政宗あたりにも芽が出てきますかね…。
勝頼という人間の一つの判断で随分と違った歴史が有り得そう。
最後の文章は本当にその通りだと思います。実は御館の乱の武田勝頼の判断は一歩下手をすると現在の日本の芸能界と東京都のある地方公共団体の運命を全く違ったものにしてしまった可能性もありました。
戦争しまくってマンパワーと金が尽き、そこから周囲に袋叩きにされるEU4負けプレイの典型
中国もそんな感じになりそうだよね。戦狼外交は本当意味ない。
決戦を申し込むとかまだあったんだ。鎌倉時代みたい。
まぁ武田信玄には子孫が今でも居るから
厳密には「武田家」は滅亡はしていないよね
武家として家が成り立たないと「滅亡」って表現しますからね
今川とか北条とか
武田家を継いだのが勝頼でその息子が正式な跡継ぎで潰えてるんで滅んでますよ。信玄の次男の家系は血脈は継いでても武田家ではないですよ。
@@しりゅー-r9w さんへ
確かに今川義元の息子の氏真はその後徳川家康や織田信長を頼って家臣の一人として戦国の世を生き、亡くなったのは1615年で徳川家康が亡くなる一年前でした。しかも、徳川家康よりも長く生き78歳でこの世を去りました。
長篠で重臣が死にすぎたのに、版図広げすぎて、勝頼本人が回りきれなくて瓦解してる…
本人に見合った領地経営が必要やったな。
若いのもあって目先の土地(利益)に釣られすぎ
勝頼は無能ではなく、周りが強すぎたと思う
相手が 信長だけなら
勝てただが計三人も
相手をする事になったからね
北条、織田、徳川
そして内なる敵
@@net1057 長篠の戦いで負けた後もなんとか領地を守っていたのにね。
信長が亡くなるのがもう少し早かったら武田家滅亡もなかったかもしれない。
北条と徳川が同盟結んだ時点で相当きついですよね。その点から見ると上杉の御館の乱の煽りを一番受けたのは武田でしたね。
戦国時代も時を経て、列強しか残ってないので武田からすれば大分しんどい時期です。
@@京大合格-d7s
信長は、武田が滅んだから
その反動で油断し
消え去った。
だが、どーにか
信長が先に死んで欲しかった
@@ダイワ暁スカーレット
佐竹にはもっと、北条領に
進攻して欲しかった
甲斐武田家が滅亡したと言っても分家の安芸武田家は今も子孫が残ってるぞ。
それと、武田勢の急激な崩壊は銀山の枯渇とも関係が深い。
それを言ったら甲斐武田氏も大名としては滅んだけど、信玄次男の海野信親の家系(高家旗本武田氏)と七男の信清の家系(米沢武田氏)が今も残ってるけどな
地味に分家扱いされてるけど若狭武田家が武田家の本家で、甲斐武田家は安芸武田家と同様分家ですよ。
長篠で大負けした後の勝頼相手に、北条もあの家康さえも武田正規軍とは真正面からは戦っていないのか。武田と真正面から戦っていい勝負したのは信玄時代の謙信だけか。その強い武田も北信濃の村上には手を焼き、同じく北信濃の真田にはきっと頼りにしていたであろう。甲府から北信濃さらに春日山へ至る地域ともうひとつ、九州の島津鹿児島から立花の前筑紫へ至る地域の武将らが戦国時代の日本で最も強いと思う。
南条英機
最初は真田も村上側だったしね
@@田中流星-k9r真田と村上は長年の宿敵であり真田は海野氏一族と親戚で村上側だった事は一度もない。武田によって海野が滅んだ後は関東管領上杉氏(当時長尾家の謙信とは別)を頼って上州に逃れたのち旧領取り戻す為に武田側についたらしい。ちなみに数年後村上義清は武田に攻められたのち長尾方について川中島で真田村上はまたも敵対したとのこと
武田家滅亡の引き金は(長篠の戦い)じゃなくて(高天神城)落城じゃないか!
トドメは浅間山噴火・・・弱り目に祟り目か。貧すれば鈍かも
(ん、諏訪大社に放火?心頭滅却すれば火もまた涼しい?)
20200303 19:13
父信玄が落とせなかった高天神城を落とした事により勝頼は武田家内での当主の地位を固めたが、
その高天神城を見殺しにした事により武田家滅亡のキッカケを作ってしまうとか、運命的な城だな
親父が酷い扱いをしていなければ、勝頼は名将として輝いていただろうに。長篠の戦いの遠因は親父だな。
バカな親を持った子は苦労するわな。勝頼も最後は信玄を恨んで死んでいったのではないだろうか。
そもそも、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れて討ち死にしたことが原因でしたが、その後信玄が今川家を乗っ取ろうと今川・武田・北条の三家で結ばれた三国同盟を破ったこと、そして、それに反対した嫡男の義信を幽閉し切腹に追い込んだことが最大の要因となりました。
しかも信玄が旧今川領を分ける時の約束を欲を出して破って家康と揉めただけでなく、信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら西上作戦で家康を攻めて信長を激怒させていますもんね。
改めて勝頼公最強を再認識できた良い動画でした。
教科書でも、どの小説でも、「長篠の戦の結果=武田滅亡」というニュアンスです。しかし、長篠の戦のあと、これだけ武田家が奮闘し版図拡大したとはビックリ。
勝頼公の機動力と、アクティブさはすごいですね。四六時中あらゆるところに出陣して行くなんて、ものすごい気力と体力。健康維持も大変だったことでしょう。
戦国大名とは、ほとほと大変な仕事です。コロナだのマスクだの騒いでいる現代人には、とても真似できません。
仁科盛信は、ほんと天晴な武将です。
武田勝頼は周りにイエスマンばかり置いてたのが良くなかった。
城攻めも上手く、平野での戦いでは無敵の強すぎる大将も信長のマムシ戦術にやられた。